会話できなくても

病気などにより、普通に家族とコミュニケーションがとれなくなるような状態になった時や、

認知症と診断されるような場合でも、

当人は、周りや家族が思うのとは違い、案外、ちゃんと聞こえたり、感じたりできていて、
けれど意思表示ができなかったり、伝えたいと思うような話が上手くできないだけなんだろうと、

私はいつも思っていたりします。



認知症の症状などにより、コミュニケーションがとれなくなる現実を、
家族が目の当たりにした時のショックというのは大きくて、
特に女性よりも男性の方がショックが大きい場合が多かったりします。

「コミュニケーションがとれ、会話が成立してこそ、人間らしく生きられるんじゃないか?」

「身体が機能しなくて呼吸だけしてても、生きてるって感じじゃない‥」

と言われたりするのは、
今までに見たことのない、変わってしまった家族の姿を、
なかなか受け入れられないんだろうと思います。

それに、密接で仲の良い家族ほど、受け入れ難い現実をつきつけられることになるのかもしれませんね。

医療現場も同じと思いますが、
介護現場に職業として関わるというのは、

人生の最期まで、その人が人間らしく生きられるお手伝いをしていくことです。

これは、食事や排泄、風呂などだけでなく、
喜怒哀楽の感情表現を伴う人間関係や、楽しみなどのレクリエーションなども、人間らしさの一部ですね。

震災の被災地でも、食事やトイレ風呂だけあれば大丈夫かといえば、そうでないのはもうよく知られてますよね。

普段の生活には、泣いたり笑ったり、文化的なことがあったりして、生活は豊かさを増していきます。


介護現場では、変わり果てた姿になってもなお、生きている限り、
その人を尊重していく姿勢には変わりないのが基本です。

寝たきりや、ひどい認知症になったとしても、
その人の人生は尊ばれるべきです。

私自身、今までも多くの方の姿に接してはきたのですが、
身近な家族が変わり果てた姿になった時というのは、
人の人生がとても尊いというのが、より一層感じられます。

人の命というのは、長い短いというよりは、
どれだけ輝いていたかや、どれだけ輝かせようとされていたか、
なんじゃないかと、私は思います。

どの人も、その人だけにしかない、尊い輝きを持って生まれてきているからなんでしょうね。




変わり果てた姿でも、やっぱり家族です。
魂は、すべてわかっているはずです。
辛いのは家族もなんですが、ご本人も同じように辛いのです。
家族揃って、最期まで愛で包まれ輝いていられますように。